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生麦事件と直線道路
1862年8月21日午後2時ごろ、江戸湾を望む松並木の東海道に、血しぶきが飛んだ。「生麦事件」だ。
東海道中、生麦村(現在の横浜市鶴見区)で薩摩藩の大名行列を馬上から見物していた英国人4人(4人は横浜居留地から川崎大師に観光に向かう途中だった)が襲われ、1人が死亡、2人が重傷を負った。この事件をきっかけに薩英戦争(1863年 )が起き、列強との力の差を感じた薩摩は近代化をすすめ、倒幕へと向かう。生麦事件は日本の歴史の流れを変えた大事件なのだ。
幕府は英国に10万ポンドの賠償金を、島津家も2万5千ポンドの賠償金(計約300億円)を支払うがそれだけではすまず、1864年12月19日には,米,英,仏,蘭の4ヵ国の公使と幕府との間で〈横浜居留地覚書(きょりゅうちおぼえがき)〉が取り交わされた。これは4ヵ国の軍事的圧力の下で締結に至ったもので,各国の軍事訓練場や競馬場(根岸競馬場)の設置,居留地の大幅な拡大などを強いられ、日本は西洋諸国に圧倒的な力の差を見せつけられたのだ。
居留地は山手から本牧のほうにまで広がり、軍事訓練場は本牧通りからまっすぐに600mほどの山手の丘に向かって作られ、射撃の訓練などに使われた。
現在も残る本牧通りから山手駅に通じる直線道路はこの跡なのだ。山手駅をから坂を上ると緑ヶ丘高校や聖光学院などの県内有数の学校があるが、この直線道路が生麦事件の置き土産だと知っている生徒は少ないのではないだろうか。